月曜日, 11月 30, 2009

本田美奈子メモリアルコンサートにて


村山直儀作「美奈子オンステージ 永遠に輝く」(油彩 80号 2009)


■本田美奈子よ永遠なれ!!
「音楽彩 本田美奈子・メモリアル」と題したコンサートが09年11月22日、日比谷公会堂で開催された。

コンサートの冒頭、本田美奈子の恩人の一人で彼女が提唱した「特定非営利法人 LIVE FOR LIFE美奈子基金」(※注)の理事長を務める作曲家服部克久氏が挨拶に立って会の趣旨と活動について述べた。舞台には、難病に苦しむ人を支援するための「LIVE FOR LIFE美奈子基金」の旗を高く掲げてジャンヌ・ダルクのように立つ美奈子のロゴが飾られていた。

(※注)「特定非営利法人 LIVE FOR LIFE美奈子基金」(問い合わせ:〒 150-0012 東京都渋谷区広尾1-3-17 OHTSUビル3F 電話:03-3473-3758)http://www.live-for-life.org/

この基金では「白血病をはじめとする難病に苦しむ患者さんの支援や啓蒙活動」などを地道に続けて来ている。続いて同基金の理事で作詞家の湯川れい子氏が、本田美奈子の短い生涯について語った。

その後は、同世代の歌手早見優氏の司会によって、宮沢和史、YU-KI、松本伊代、坂本冬美(敬称略)など、本田美奈子を敬愛する音楽家たちが、ほぼ3時間に及び、心を込めた歌声を披露した。



同「アメイジング グレイス」 
(本田美奈子肖像 油彩 キャンバス 50号 2008)


■鬼才村山直儀「本田美奈子」を描く
会場三階では、本田美奈子新作絵画展(画家:村山直儀)と写真展(写真家:秋山正太郎)が開催されていた。特に本田を描いた5枚の新作に目を見張った。日本洋画壇の鬼才村山直儀氏は、彼女の類い希な才能を惜しみ、彼女が生前から発起人となって始めた「LIVE FOR LIFE美奈子基金」の趣旨に賛同し、その上で「本田美奈子の存在のすべてを4枚の作品に凝縮させようと、この2年間没頭した」と熱く語った。その作品は、故人の持つ個性を余すところなく活写している。まさに魂を込めた肖像画であった。

第一の作品は、本田美奈子が「屋根の上のバイオリン弾き」でホーデル役を演じた時の一瞬をキャンバスに描いた作品「美奈子オンステージ 永遠に輝く」(油彩 80号 2009)である。この作品を見た故人の母(工藤美枝子氏)は、涙を浮かべたそうだ。ドレスを着た作品「アメイジング グレイス」 (本田美奈子肖像 油彩 キャンバス 50号 2008)を見た本田美奈子の音楽事務所社長は思わず合掌したとのことだ。筆者は「ミューズの情熱そして誓い」(油彩 キャンバス 20号 2009)と題した青のドレスの作品を一目惚れしてしまった。

その他、オフに自室でテレビでも見ているような作品「ミューズのくつろぎ」((油彩 キャンバス 30号 2009)と「ミューズの微笑」(油彩 キャンパス 4号 2009)という小作品が掲げられていた。

同「ミューズの微笑
(油彩 キャンパス 4号 2009)

■歌い継がれる本田美奈子の「アメイジング グレイス」
本田美奈子は、今から四年前の2005年11月6日、その才能を惜しまれながら、急性骨髄性白血病のため38歳の若さで夭折した。元アイドルとしてスタートした彼女は、徐々に本格的な歌手として脱皮していく。その切っ掛けは、ミュージカル「ミス・サイゴン」との出会いだった。運命的なものを感じた美奈子は、1万5千人を越えるオーディションを難なく突破して、一躍日本のミュージカルシーンを代表する歌姫の一人になった。続き1992年には、「屋根の上のバイ オリン弾き」でホーデル役を演じて絶賛を博した。国際的な舞台にも進出するようにもなった。

しかし運命は時に天才に非情に接することがある。2005年1月、突然の体調不良が美奈子を襲う、即入院、病名は急性骨髄性白血病だった。あの女優夏目雅子や俳優渡辺謙、歌舞伎の市川團十郎を襲った血液の難病だ。美奈子は、舞台への復帰を期して懸命の治療を続けた。けっして歌を諦めなかった。復帰後 の夢も語ったという。治療成果も上がり、一度は退院したものの、発病から一年も経たず、惜しまれながら逝ってしまったのである。

彼女が亡くなった時、彼女が無伴奏で歌った賛美歌「アメイジング・グレイス」が流され話題になった。まるで私には自らの短い人生を弔うような歌声に 聞こえた。その純粋な本田美奈子の歌声は、日本の音楽シーンの中で、残響となって響き渡っている。このコンサートの最後でも、無伴奏の染み渡るような歌声 が流れ、出演者と会場全体が、その後に続き大合唱となった。本田美奈子の「思い」は多くの人に支えられ、善意の波紋となって拡がり続けている・・・。

日曜日, 11月 25, 2007

村山直儀「シンデレラ」の連作 第4作「ガラスの靴」


ガラスの靴( バレエ「シンデレラ」より)
村山直儀 2006/7 油彩 F10号 53.0×45.5cm

四作目は、「ガラスの靴」を廻る騒動が人間喜劇として滑稽に描かれている。画面全体を占める色はこげ茶であるが、この色を背景に、橙、黄、ピンク、紫など の色が渾然一体となり、一見軽薄とも取れる摩訶不思議な明るさを醸し出している絵だ。

シンデレラが、ガラスの靴を落として宮殿を去った後、彼女に一目惚れをした王子の嘆きは大変だった。国中を挙げて、ガラスの靴の持ち主を捜すことになっ た。当然金持ちのシンデレラの家にも城の者がやってくる。

自分のものではないと分かっていながらも、ガラスの靴を何とか履こうと、ふたりの姉はやっきになる。グリムの原作では、姉はナイフで自分の足を削ってまで 靴を履こうとしたとある。人間の欲というものは何と愚かで際限のないものだろう。

村山はその人間の愚かさを醜悪な姿として、描き切ろうとしているようだ。どんなに美しい容貌を持ち、高価なドレスを着ても、心が美しく透明でなければ、そ れは滑稽としか映らない。村山は光を多く浴びせることによって、愚かな人間の心の醜さを白日の下に晒そうとする。我々の日常の中でも、よく見受けられる光 景だ。

この光景をシンデレラはじっとドアの隙間から覗いている。シンデレラのポケットには、ガラスの靴の片割れが入っている。もう時期、シンデレラに幸運が舞う 込もうとしている。シンデレラの心の中では、継母とふたりの姉が欲の虜となって、靴を履く姿がどのように映っているのであろう。

この後、シンデレラは、ガラスの靴を履き、自分がシンデレラ姫であることを宣言する。事実が判明し、シンデレラが、王子の妃になることが決まった後の人間 模様がまた面白い。

グリムの原作では、二人の姉は、シンデレラに便乗して、宮殿に入ろうとしたが、シンデレラについていた鳥が、二人の姉の目を突いて一生自分の目で世界が見 えないようにするという残酷な結末になっている。要は罰が当たったのである。

一方ペローの物語では、二人の姉は、事実を知ると、シンデレラ(サンドリヨン)の足もとに身を投げ出して、許しを請った。するとシンデレラは、二人を許 し、宮殿に住ませた上に、自分の結婚式に合わせて、姉二人にも、貴族を選んで結婚させてあげたというのである。

そして、物語の最後には、こんな「教訓」が添えられている。

女性にとって、美しさは、たぐいまれな宝です。ひとは、美しい女性に感嘆してあきないでしょ う。でも心やさしいと名づけられるものは、はかり知れぬほど、ずっと大切なものです。(中略)心のやさしさこそ、仙女の真の贈り物です。これがなくては、 なにもできませんし、これがあれば、なんでもできます。」(榊原晃三訳 シャルル・ペロー「眠れる森の美女」出帆社 1976年刊 所収 「サンドリヨン」より)

ふたつの結末のうち村山はどちらを取るのか。村山に直接聞いてみることにした。

すると村山は間髪を入れず
言った。

それは、もちろんペロー版の穏やかな方だな。 どこまでも優しさを貫くからシンデレラは聖なる乙女なんだ。その彼女の脇で、姉たちが失明するようなことがあれば、せっかくの麗しい話が俗なる復讐劇とい うことになってしまう。だからハッピーエンドが自然だと思うね。

村山のこの絵に込めた思いが分かるような気がした。このウクライナの少年少女たちによるバレエ劇の連作の第一作目が何故「祈り」というタイトルになり、シ ンデレラが目を瞑って祈っている姿を村山が描いたのだろう。おそらく村山は、どんな不幸の中にあっても、母なる人の言葉を信じ通し、高潔ななる心を忘れぬ 聖なる乙女の祈りを描き切りたかったはずだ。それは世界中に溢れている際限のない欲望の開放とエゴイズムの海に溺れる愚かな人間たちへの画家としてのメッ セージでもある。今村山は、シンデレラの第五作として、「幸福の到来」(仮題)と題する作品を描いている最中である。場面は、王子の妃となったシンデレラ が、王子と婚姻の席で舞う場面のようだ。

村山から五作目の話を聞いた時、私はドイツの教育者で「神智学」を奉じる思想家ルドルフ・シュタイナー(1861ー1925)の次の言葉を思い出してし まった。

もしあのときに不幸が生じなかったとすれば、 多分私はとうに駄目な人間になっていただろう。あの不幸がなかったら私は決して有能な人間にならなかっただろう。あれは私の人生を発酵させる酵素だったの だ」(高橋巌訳「シュタイナーの死者の書」ちくま学芸文庫 2006年8月刊 P71)

この著書の中で、シュタイナーは、人間は不幸になる衝動を持つとまで語っている。それは魂にあらかじめ刷り込まれているもので、その不幸によって、魂が成 長するという考え方である。シンデレラの物語にその思考を当てはめれば、シンデレラの魂は、一時期の不幸な時間によって鍛えられ、浄化されたということが できる。それがシュタイナーが言う「不幸の意味」なのである。

さて不幸な一時期によって醸成されたシンデレラと王子の幸福の到来(結婚)についての考察は、第五作目完成を待って記すことにしよう・・・。つづく

村山直儀「シンデレラ」の連作 第3作「宴」

( バレエ「シンデレラ」より)
村山直儀 2006/7 油彩 F13号 65.2×53.0cm

三作目は「宴」。シンデレラが舞踏会で踊るシーンだ。時の移ろいを忘れ、踊りに興じるシンデレラが、初々しく描かれている。第一作と同じく暗い背景の中 で、第一作とは比べにならないような美しいドレスを身に纏ったシンデレラが足もとに目線を落としながら舞う。この絵でも、背景がシンデレラのテーマである かのように暗いのは何故か。これはシンデレラの高潔な精神性をよく表すための暗喩的作為なのかもしれない。蓮の花は、暗い泥池の水面に信じられないほどに 美しい花をつけるが、村山一流の光の表現法がここにはある。「絵は光の芸術だ。明と暗が 織りなす光をどう描くか。その画法をレンブランドやベラスケスから学んだ」という旨の話を村山から聞いたことを思い出した。

さてシンデレラの物語をグリム童話(初版刊行1812年)の原作から少し吟味してみる。この舞踏会はただの舞踏会ではない。国王が宮殿で主催する饗宴は、 王子の妃捜しの意味合いがあった。王子は国中の若い娘の羨望の的である。若きシンデレラも例外ではない。灰まみれになっていても、何とかこの祭りに参加し たいと継母にお願いをする。継母は余りのシンデレラの熱意に無理難題を言う。姉たちも「あなたにはドレスもないし木の靴しかない。第一踊れないでしょう」 と馬鹿にするのである。シンデレラは、母の墓前で次のような呪文のような言葉を唱えながら祈りを捧げる。

「はしばみちゃん、ぐらぐらうごいて、ゆさゆさうごいて、こがね、しろがね、あたしにおとしてちょうだいな」(岩波文庫「グリム童話」1金田鬼一訳  1979年刊より)

はしばみは「榛」と表記する落葉低木である。雄花と雌花が開花し、果実は「ヘーゼルナッツ」と呼ばれ食される。墓前のはしばみの木は、シンデレラが植えた もので、この木には鳥が来て母の魂の象徴のような存在である。

呪文が終わると、はしばみの木の間から、真っ白な鳩が、金と銀の糸で織ったドレスと美しい刺繍の入った黄金色の靴(ガラスの靴ではない)を落としてくれた のだった。王子はシンデレラを見たとたん恋に落ちる。シンデレラに別の男性が、「踊って」と来るものなら、「彼女はボクのパートナーだから」と言うほど だった。周囲は、あの王子を虜にした美しい娘は誰だろうという話しで持ちきりになる。

現在私たちが知っている「ガラスの靴」と「カボチャの馬車」のイメージで覚えているシンデレラの物語は、ウオルト・ディズニーが1950年に発表したアニ メーションによって一般に知られるようになった。このディズニー版シンデレラの元になったのは、ドイツのグリム兄弟による「シンデレラ」ではなく、フラン スのシャルル・ペロー(1628ー1703)の童話「サンドリヨン」(副題は「小さなガラスの上靴」)である。

ペローの童話では、シンデレラを舞踏会に送る手伝いをしてくれたのは、はしばみの木陰の真っ白い鳥(鳩)ではなく、仙女(妖精)となっている。これがディ ズニー版では、魔法使いのおばあさんとなり、シンデレラの汚れた灰まみれの服を青いドレスに変えて宮殿に送り届けてくれるのである。「ガラスの靴」や「カ ボチャを馬車」もペローの童話から採られている。

舞踏会に行くにあたってで魔法使いのおばあさん(妖精)は、シンデレラに注意を与える。深夜の12時を過ぎると魔法は解けて、服も何もかも元に戻ってしま うというのである。ところがシンデレラは、余りの楽しさに時を間違えてしまう。12時を告げる鐘がなり、慌てて階段を走ったシンデレラは靴の片方を落とし たまま城をあとにして家に戻ったのである。

村山直儀「シンデレラ」の連作 第2作「夢の中」


夢の中(  バレエ「シンデレラ」より)
2006/7 油彩 F8号 45.5×37.9cm

二作目は、醜悪な表情をした姉がシンデレラの夢にまで現れて意地悪をする場面。グリム童話において、シンデレラの原題は、「灰かむり」である。もちろんそ の「灰かむり」とはシンデレラのことである。シンデレラは灰まみれになって働く娘が、最後には苦労の果てに幸福得る物語だ。元々シンデレラはお金持ちのひ とり娘であったが、母が重い病気にかかる。死期を覚った母は、娘の行く末を心配し、病床に娘を呼んで、こう言い聞かせた。

「シンデレラ、いい子だね。いつまでも神さまを大事にして、優しい気持ちで生きてね。そうすれば神さまが必ず助けてくださるはず。ママも天国からお前のこ とをいつも見ていますからね・・・。」

そう言い終わると、シンデレラの母は天国に旅立ってしまった。一年も過ぎないうちに父は、別の妻を迎える。シンデレラの本当の苦労はここから始まった。継 母にはふたりの美しい娘がいて、姿は美しいのだが、心の中はイカの墨のように真っ黒だった。そしてこの三人はシンデレラを召使いのようにこき使う。

シンデレラのサクセスストーリーは、継母や姉たちのイジメ方がひどければひどいほど、後にシンデレラが王子の愛を得て幸福になる成功譚が光り輝く構造に なっている。日本にも「鉢かつぎ」(「御伽草子」室町時代に成立)という継子が苦労の果てに幸福を得る物語が伝えられている。

考えてみれば、シンデレラの物語がこれほど世界的に愛される理由は、世界中の人間の心の中にシンデレラの話を受け入れる共通意識(集合的無意識)があるか らだ。シンデレラはいつも亡くなった母の言葉を思いだし優しい気持ちと神の愛を信じて疑わない。これがシンデレラが最後に幸運を引き寄せるキーとなった。

村山は、第一作目(「祈り」)の深い色合いから一転して、全体を薄い茶色で描いている。姉は増長と高慢さを見せて胸を反らせ、左右の両手を大きく拡げて、 「お前が舞踏会に行くなんて、無理に決まっているでしょう」とシンデレラをなじっているようだ。

第一作「祈り」が「聖なるもの」であるとすれば、二作目「夢の中」は「俗なるもの」という対比が可能だ。人間の醜悪な一面を描く村山の描写力もやはり凄い の一語だ。

村山直儀「シンデレラ」の連作 第1作「祈り」

祈り(バレエ「シンデレラ」より)
2006/7 油彩 F10号 53.0×45.5cm


村山の新作を見る。「シンデレラ」の連作だ。

ところで村山からこのようなメッセージが届いた。

ウクライナ、ハリコフ舞踊学校の子供バレエ団が今年も来日した。今回でこのバレエ団の来日は三度目である。数年前に、私は12歳から15歳の子供たちで構成されるバレエ団の演技を目の当たりにして、すっかり虜になってしまっている。

今年の公演は「シンデレラ物語」(プロコフィエフ作曲1945年初演)だった。シンデレラを演ずるのは15歳の若きプリマであったが、私はそのレベルの高さに圧倒された。特にその妖精のような容姿と相まって、完璧なまでの身体能力と舞踏技術は神業ではないかと感心した。舞台全体が彼女の放つ光で美しく輝いているようだった。

私はその感動に任せ、四点の習作を描いた。その際、ハリコフ舞踏学校校長のナタリア・ A・ルジエフスカヤ氏と日本バレエ協会の小林秀穂さんに様々な配慮をいただき感謝したい。出来上がった習作を見ながら、バレエという芸術の奥の深さを改めて痛感した次第である。

2006年8月30日
そこには粗末な下働きの格好をした「シンデレラ」が描かれていて、タイトルは「祈り」としてあった。すぐに私は村山が、何故この連作を仕上げたいと思ったかの意図が呑み込めた気がした。シンデレラの物語は、グリム童話にあるサクセスストーリーである。継母と姉たちに、使用人のようにこき使われ、泥まみれになって働かされながらも、シンデレラは、少しもめげず一生懸命に生きている。シンデレラの心はどこまでも素直でまっすぐである。シンデレラは少しも自身の将来を悲観していない。この考え方が、シンデレラに幸運をもたらすのである。

このプリマの夢見るような健気な横顔から、私はフェルメールの名作「青いターバンの少女」を連想してしまった。白い乙女の二の腕から指先まで青い血管が透けて見えるかのように村山は丁寧に描いている。背景を暗くすることで、少女の祈りが美しく協調されている。やがて少女の純粋無垢な祈りによって実現される幸運の種子は、今か今かと開花する時期を待ち望んでいるのである。(佐藤弘弥記)

日曜日, 6月 19, 2005

☆楊貴妃の肖像 隠れ観音と昊天妃(こうてんき) 2005




鬼才村山直儀が「楊貴妃」に挑戦した。村山の美的興味は、ついに中国唐代の伝説的美女楊貴妃(719-756)へと向かった。綿密な中国取材を通して描かれたこの新作では、明らかに村山に様式的な変化がみられる。これまで背景について意図的に排除してきた村山だが、今回は全体を非常に装飾的に描いている。金色がふんだんに使われ、鳳凰や小鳥が五線譜の上を跳ねるように配置されている。 カンバスの奥からはふくよかな音楽が聞こえてくる。心地のよい胡弓の響きだ。いったいこの変化はなぜもたらされたのか。

唐代の美人というものは、概ねふくよかな美人である。しかしここで村山は、スレンダーな楊貴妃を描いて、村山特有の固定概念に囚われぬ眼が冴えている。ここには肉感的で妖艶な楊貴妃はいない。理知的でどことなく百済観音の面影にも見える。

村山はこの絵について一言、「現代の観音様を描きたかった」とだけ語った。画の下側を見ると、ベージュ色の雲のようなものが見える。中尊寺蓮をデフォルメしたものだという。中尊寺蓮は、平泉の中尊寺金色堂にある泰衡の首桶の中から発見されて800年ぶりに開花した神秘の蓮だ。

楊貴妃には、源義経と同じく不死伝説がある。何と日本に渡って来たというものだ。山口の萩市には、楊貴妃が流れ着いて、そこで亡くなったという言い伝えが残っている。真意のほどは不明だが、日本に流れ着いた楊貴妃という絶世の美女を日本人が暖かく迎えその菩提を弔ってきたという話には限りないロマンがある。 新しい村山芸術の展開がここから始まるのだろうか・・・。(佐藤弘弥)


☆義経一ノ谷へ(馬上の閃き) 2005



運命の時は刻々と迫っていた。須磨の海に陽が昇ってくると、源義経は、日輪に向かい短く祈りを捧げた。次の瞬間、軍神は義経に憑依(ひょうい)し、神となった義経は地を蹴ってたちまち馬上の人となった 。

方々、畏れるな。神仏の加護は我らに有り。あの日輪に向かい、この坂を下るのだ

愛馬は、その叫声に一瞬怯(ひる)んだが、たちまち主の意を酌み目を見開いて嘶(いなな)いた。義経ら70騎の精兵たちは一塊の火の玉となって、一ノ谷の急坂を転がる落ちるように下って行った。 2005年春、鬼才村山直儀は、一ノ谷合戦の奇跡を、義経と愛馬の「人馬一体」の構図に凝縮させた。この新作の画面一杯にみなぎる緊張感とその圧倒的なスピード感は、凄まじいの一語だ。(佐藤弘弥)

☆ニーナ・アナニアシュヴィリの肖像 2001



ニーナ・アナニアシュヴィリの肖像は、村山直儀という孤高の芸術家が、到達した画境を示す傑作である。現代最高のバレリーナ「ニーナ・アナニアシュヴィリ」との出会いを通じ、画家は己の芸術性をかけて彼女の高い精神性をカンバスに描き切ろうとした。その並々ならぬ決意が、この絵の端々から伝わってくる。通常であれば、バレリーナを描く場合、踊っている姿を描きたくなる所だ。それを鬼才、村山直儀は、意識的に舞台に立つ前の静止した上半身だけを描いた。村山は、「ニーナには、神が宿る。ステージに立った瞬間、神は彼女の肉体に入って踊るのだ」と語っている。とすれば画家は、神が舞い降りる一瞬を描いたことになる。こうして20世紀後半を代表するバレリーナ「ニーナ・アナニアシュヴィリ」は、村山直儀の天才によって、永遠のヒロインとしてカンバスに刻印されたのである。(佐藤弘弥)

土曜日, 6月 18, 2005

☆永訣の月 2002



「永訣の月」は、芸術家村山直儀が、2002年春、執念で完成させた渾身の一作。題材は、「源義経」が奥州平泉の衣川の館(高館)で自刃して果てる前夜という設定。煌々と月光が、奥州の大河北上川に照り映えている。義経は、迫り来る運命の時を感じながら、悠然として月明かりに照らされた奥州の山河を眺めている。己の生涯において、為すべきことは為したという強い充足感が、その超然とした表情の中に滲み出ている。実に美しく威厳に満ちた義経像である。義経はもはや傍らの鎧を身に着ける気はない。だがその背後に控える武蔵坊弁慶には、人生最後にして最大の仕事が迫っている。押し寄せてくる敵兵を防いで、主君義経を極楽往生させるという大仕事だ。二人の表情の違いに見える心理的コントラストが実に見事だ。ここに、義経と弁慶という伝説の勇者たちは、村山直儀の芸術によって、800年の時空を越えて、蘇ったのである。(佐藤弘弥)

☆希望 2004



村山直儀 の新作「希望」(若き女優の肖像)は、信じられないほど美しい作品だ。とかく、私たちは、マリリン・モンローを、「セックスシンボル」というイメージで見 がちだ。しかし村山はモンローを若き女神と見る。そしてそのうら若き女神の瞳の中に、「希望」を見い出しているのである。画家村山は昭和11年東京京橋に 生まれた。敗戦後、彼が青春時代を送った昭和20年から30年代にかけて彼はアメリカの文化の虜となった。村山は語る。「ジャズやカントリーや映画など、 アメリカ文化のすべてが美しく希望に満ちあふれていた」と。村山の描くマリリン・モンローは、まさに当時のアメリカそのものである。そしてこの美しき女神 は、第二次大戦後、平和を謳歌しつつあった日本の若者の「希望」でもあった。私はこの村山の「希望」に、画家のノスタルジーと現代アメリカへの強いメッ セージを感じとってしまう。今だ世界は戦争のど真ん中にいる。世界平和への「希望」を抱きつつ、芸術家村山が祈るようにして、この画を描き上げたことを私 は知っている。(佐藤弘弥)

金曜日, 6月 17, 2005

☆藤原清衡の夢 2005



村山直儀の新作「藤原清衡の夢」は、柳の御所趾に最後に一本残ったし だれ桜を救う祈りをもって描かれた作品である。平泉の 柳の御所跡が、初代清衡公の眼というフィルターを通し濃い緑色で幻想的に描かれている。古来から歌に詠まれた北上川と束稲山が観る者に何かを語りかけてく る。その中で、一本のしだれ桜が物憂げに首うなだれている。村山は、「時空を越えた感覚で描いた」とだけ語った。その短い言葉に、村山自身の平泉への深い 愛とやるせない悲しみを感じた。これは人間の身勝手で日々移り変わって行く「平泉の原風景」への鎮魂画とも表すべき作品である。なぜなら、私たちはここに 描かれた柳の御所跡の原風景を、村山のこの画でしか拝めなくなってしまったからだ・・・。(佐藤弘弥)