日曜日, 11月 25, 2007

村山直儀「シンデレラ」の連作 第4作「ガラスの靴」


ガラスの靴( バレエ「シンデレラ」より)
村山直儀 2006/7 油彩 F10号 53.0×45.5cm

四作目は、「ガラスの靴」を廻る騒動が人間喜劇として滑稽に描かれている。画面全体を占める色はこげ茶であるが、この色を背景に、橙、黄、ピンク、紫など の色が渾然一体となり、一見軽薄とも取れる摩訶不思議な明るさを醸し出している絵だ。

シンデレラが、ガラスの靴を落として宮殿を去った後、彼女に一目惚れをした王子の嘆きは大変だった。国中を挙げて、ガラスの靴の持ち主を捜すことになっ た。当然金持ちのシンデレラの家にも城の者がやってくる。

自分のものではないと分かっていながらも、ガラスの靴を何とか履こうと、ふたりの姉はやっきになる。グリムの原作では、姉はナイフで自分の足を削ってまで 靴を履こうとしたとある。人間の欲というものは何と愚かで際限のないものだろう。

村山はその人間の愚かさを醜悪な姿として、描き切ろうとしているようだ。どんなに美しい容貌を持ち、高価なドレスを着ても、心が美しく透明でなければ、そ れは滑稽としか映らない。村山は光を多く浴びせることによって、愚かな人間の心の醜さを白日の下に晒そうとする。我々の日常の中でも、よく見受けられる光 景だ。

この光景をシンデレラはじっとドアの隙間から覗いている。シンデレラのポケットには、ガラスの靴の片割れが入っている。もう時期、シンデレラに幸運が舞う 込もうとしている。シンデレラの心の中では、継母とふたりの姉が欲の虜となって、靴を履く姿がどのように映っているのであろう。

この後、シンデレラは、ガラスの靴を履き、自分がシンデレラ姫であることを宣言する。事実が判明し、シンデレラが、王子の妃になることが決まった後の人間 模様がまた面白い。

グリムの原作では、二人の姉は、シンデレラに便乗して、宮殿に入ろうとしたが、シンデレラについていた鳥が、二人の姉の目を突いて一生自分の目で世界が見 えないようにするという残酷な結末になっている。要は罰が当たったのである。

一方ペローの物語では、二人の姉は、事実を知ると、シンデレラ(サンドリヨン)の足もとに身を投げ出して、許しを請った。するとシンデレラは、二人を許 し、宮殿に住ませた上に、自分の結婚式に合わせて、姉二人にも、貴族を選んで結婚させてあげたというのである。

そして、物語の最後には、こんな「教訓」が添えられている。

女性にとって、美しさは、たぐいまれな宝です。ひとは、美しい女性に感嘆してあきないでしょ う。でも心やさしいと名づけられるものは、はかり知れぬほど、ずっと大切なものです。(中略)心のやさしさこそ、仙女の真の贈り物です。これがなくては、 なにもできませんし、これがあれば、なんでもできます。」(榊原晃三訳 シャルル・ペロー「眠れる森の美女」出帆社 1976年刊 所収 「サンドリヨン」より)

ふたつの結末のうち村山はどちらを取るのか。村山に直接聞いてみることにした。

すると村山は間髪を入れず
言った。

それは、もちろんペロー版の穏やかな方だな。 どこまでも優しさを貫くからシンデレラは聖なる乙女なんだ。その彼女の脇で、姉たちが失明するようなことがあれば、せっかくの麗しい話が俗なる復讐劇とい うことになってしまう。だからハッピーエンドが自然だと思うね。

村山のこの絵に込めた思いが分かるような気がした。このウクライナの少年少女たちによるバレエ劇の連作の第一作目が何故「祈り」というタイトルになり、シ ンデレラが目を瞑って祈っている姿を村山が描いたのだろう。おそらく村山は、どんな不幸の中にあっても、母なる人の言葉を信じ通し、高潔ななる心を忘れぬ 聖なる乙女の祈りを描き切りたかったはずだ。それは世界中に溢れている際限のない欲望の開放とエゴイズムの海に溺れる愚かな人間たちへの画家としてのメッ セージでもある。今村山は、シンデレラの第五作として、「幸福の到来」(仮題)と題する作品を描いている最中である。場面は、王子の妃となったシンデレラ が、王子と婚姻の席で舞う場面のようだ。

村山から五作目の話を聞いた時、私はドイツの教育者で「神智学」を奉じる思想家ルドルフ・シュタイナー(1861ー1925)の次の言葉を思い出してし まった。

もしあのときに不幸が生じなかったとすれば、 多分私はとうに駄目な人間になっていただろう。あの不幸がなかったら私は決して有能な人間にならなかっただろう。あれは私の人生を発酵させる酵素だったの だ」(高橋巌訳「シュタイナーの死者の書」ちくま学芸文庫 2006年8月刊 P71)

この著書の中で、シュタイナーは、人間は不幸になる衝動を持つとまで語っている。それは魂にあらかじめ刷り込まれているもので、その不幸によって、魂が成 長するという考え方である。シンデレラの物語にその思考を当てはめれば、シンデレラの魂は、一時期の不幸な時間によって鍛えられ、浄化されたということが できる。それがシュタイナーが言う「不幸の意味」なのである。

さて不幸な一時期によって醸成されたシンデレラと王子の幸福の到来(結婚)についての考察は、第五作目完成を待って記すことにしよう・・・。つづく